黄建丰发言稿(中日文)

 


女士们、先生们,大家好!

我叫黄建丰,黄子莲的曾孙,浙江省温州市瓯海区泽雅镇坑源村人。

我今天怀着无比悲痛的心情向大家讲述我曾祖父黄子莲的胞兄黄子森在日本惨遭杀害的经过,同时向所有像我曾祖父的胞兄黄子森一样在日本遇难的先辈们表示沉痛的哀悼。

1923年9月,日本关东大地震期间,在军国主义思想灌输下的一批在乡军人,自己团及社会青年团(以下称日本暴徒)等趁震灾社会混乱之机,惨杀浙江温州处州(今丽水市)旅日华工数百人,我曾祖父黄子莲是日本暴徒在大岛町八丁目惨杀华工174人中唯一的幸存者和见证人。

曾祖父黄子莲,永嘉县二十三都坑源村(今瓯海泽雅镇)人。他赴日本谋生前,全家七八口人,仅祖种几亩山田,生活不得温饱。由于贫困,他和胞兄黄子森以及同村黄岩池、黄景轩、黄程围等于第一次世界大战后赴日本做工。

他们于1922年闰五月赴日本东京大岛町做工,住在同乡开设的小客栈里,他们十几个人挤在一个小房间,早出晚归,一天工资仅两三个日元,生活极其艰苦。

曾祖父他们几个人在日本做了一年多时间的苦力,即遇到了关东地区大地震,这次地震从1923年9月1日中午开始至8日停止。地震发生第二天,他们从大岛町五丁目林合记小客栈转移到八丁目林合吉客栈,此时,尚未平息,四处火光冲天,人心惶惶。次日夜晚,曾祖父和旅日同乡170余人正在担忧自己的生命安全之时,突然有数百名日军暴徒各执凶器,蜂拥至客栈,先驱赶华工离开客栈外一处空地上集中,然后叫喊:“地震即将来了,大家伏在地上!”,曾祖父等174人一齐卧地之后,惨无人道的日军暴徒大杀出手,用斧头、铁棒、铁钩、刀剑等向手无寸铁,毫无思想准备的华工砍、击、扎、刺,使温、处两地包括黄岩池、黄景轩、黄程围在内的173名华工丧生,仅有我曾祖父黄子莲一人头部及右身后被击一大洞,昏厥在同乡的尸堆之下而死里逃生。

林合吉客栈外面的空地上尸横遍地,血流成河,日本暴徒把温、处两地旅日华工杀害后,又把死者身边携带的钱物一一摸去,曾祖父身边30枚银元被摸去,压在同伴死尸下的曾祖父苏醒后,扒开尸体,爬到客栈附近的荷花田内躲避,夜间,他仰卧在田坎上,日间在荷花田内用荷叶遮盖着,生怕被日本暴徒发现,再次受害。

    9月4日夜间,曾祖父从八丁目逃到七丁目一间空屋里。5日早晨7时许,又饥又渴的曾祖父从空屋里出来觅食充饥,不料又遇上日本暴徒,被绑走了,走了一段路,忽然看见一位日本警察迎面走来,曾祖父便大喊:“救命!救命!”警察闻声,疾奔而来,见是一位身负重伤的华工,即从暴徒手里夺过去,将他送给小松川交给防营,再由防营把他押送至千叶县习志野收容所。

习志野收容所,收容了一千余人的旅日华工,大都是温处两地同乡,曾祖父与其他灾侨一样,受日本暴徒监视,使他们惶惶不可终日。出身贫农的曾祖父从未尝过这种这种人间地狱的生活,他们每天仅吃三个鸡蛋般大小的饭团。

曾祖父在习志野收容所里度过了一个月的苦难生活,10月5日被日本当局遣送回国。

    1923年10月8日,曾祖父等人抵达上海。他从十六铺码头上岸后,受到温州旅沪同乡会和上海协济日灾会的热情接待。伤势严重的曾祖父见到祖国家乡亲人对他及旅日同乡如此热情,想到自己在日本的遭遇及同伴被惨杀的情景,不禁热泪纵横。他向温州旅沪同乡会长及成员诉说了关东大地震期间中国同胞被日本暴徒屠杀的情形和自己死里逃生的经过,又向上海新闻界血泪控诉日本军国主义的暴行。
    
曾祖父回到家乡后,由于受伤后没钱治愈,于1924年5月病死于老家坑源村。曾祖父是一个家庭的顶梁柱,他的去世使整个家不但陷于极度的悲痛中,更陷入极度的贫困之中。

其他几位同乡黄岩池、黄景轩、黄程围及同胞黄子森均是家庭的顶梁柱,他们在日本惨遭杀害后,噩耗传来,四个家庭悲痛欲绝,哭声震天。

黄岩池父亲黄加环听到儿子惨死他乡,禁不起这打击,病倒在床上,几天不吃饭,母亲麻氏也从此一病不起,于次年6月份去世,整个家庭从此就垮了。

黄景轩父亲黄忠寿,本来身体就不好,听到儿子死亡消息,整个人都呆了,从此生活不能自理,其母陈氏,整天以泪洗面,于7年后忧郁而亡。

黄程国没有留下任何亲属。

人死不能复生,活着的人必须坚强,我们在愤怒的同时,希望历史的悲剧不要重演。

我们希望中日社会各界关注这段历史,为我们的下一代创造更好的和平环境,造福中日两国人民。让我们团结起来追究日本政府的历史罪行,以讨回历史之公道和正义。

  【日文】 

黄建豊発言稿

皆様こんにちは!

私の名は黄建豊で、黄子蓮の曾孫にあたります。浙江省温州市欧州瓯海区澤雅鎮杭源村の出身です。

  本日、私の曾祖父 黄子蓮の兄である黄子森が、日本でどのように殺害されたのか、その過程をこの上ない悲痛な心情でもって皆様に語らせて頂きます。そして、曾祖父の兄 黄子森のように、同じく日本で難に遭われた先輩諸氏に深い哀悼の意を表します。

1923年9月、日本の関東大震災が起こった当時、軍国主義思想を植え付けられた一部の在郷軍人、自警団、社会青年団(以下、これらを日本の暴徒と記す)などが、震災の社会的混乱に乗じて浙江省温州?処州(現 麗水市)出身の在日中国人労働者数百人を惨殺した。日本の暴徒は大島町八丁目において174人を虐殺したが、私の曾祖父 黄子蓮は、まさにその現場における唯一の生存者であり、目撃者であった。

  曾祖父の黄子蓮は永嘉県二十三都杭源村(現 瓯海澤雅鎮)出身、日本に出稼ぎに行く前は、家族が7~8人おり、耕せるのは山にある数ムーの田畑のみであり、生活していくには厳しい状態であった。そういった貧困が理由で、第一次大戦後、黄子蓮は兄の黄子森、そして同村の黄岩池、黄景軒、黄程囲などとともに日本へ出稼ぎに行った。

1922年閏五月、彼らの出稼ぎ先は東京大島町であり、同郷の人間が営む小さな宿屋に住み込んでいた。狭い一間に十数人が詰めるように居住しており、仕事は朝早くに出て夜遅くに帰り、一日の給与は二~三円ほどで、生活は極めて苦しかった。

  曾祖父ら数人が日本で一年余り働いていたとき、関東地区にて大地震が発生した。この地震は1923年9月1日の正午から8日まで続き、地震発生の二日目、彼らは大島町五丁目の林合記の宿屋から八丁目の林合吉の宿屋に移る。この時も状況はなお落ち着いてはおらず、四方は火の海となっており、人々は戦々恐々としていた。翌日の夜、曾祖父と同郷者170人余りがまさに自分の身の安全を心配していたそのとき、突然数百人の凶器を手にした日本の暴徒が宿屋に押し寄せてきた。暴徒はまず中国人を宿屋の外にある空き地に追いやり、その後「地震が来るぞ!みな地面に伏せろ!」と叫んだ。曾祖父ら174人が一斉に地面に伏せると、残虐非道な暴徒は斧や鉄棒、鉄鉤、刀などで、物的にも意識的にも無抵抗な中国人を斬り、突き、刺し、その結果、黄岩池や黄景軒、黄程囲を含む温州と処州出身の中国人173名が命を落とした。曾祖父の黄子蓮は頭部と右の背中に大穴があくほどの傷を負い、失神して同郷の死体に埋もれていたが、なんとか死の淵から生き返ってきた。

    林合吉の宿屋の外にある空き地には死体が累々と横たわり、流血の河となっていた。暴徒は温州、処州の中国人を殺害してから、死者が身につけていた金を奪い、曾祖父は持っていた30枚の銀元を持ち去られた。死体に挟まれ倒れていた曾祖父は目を覚ますと、死体を押しのけ、宿屋付近にある蓮畑まで這っていき身を隠した。彼は日本の暴徒に見つかって再度襲われることを怖れ、夜は畦道で仰向けになって横たわり、日中は蓮畑で蓮の葉に身を隠していた。

    9月4日の夜、曾祖父は八丁目から七丁目のある空家に逃れた。5日朝7時頃、曾祖父は飢えと渇きから食料を求めて空家から出たところ、またも日本の暴徒に遭遇し、連れ去られてしまう。しかし連行されるその途上、一人の警察がこちらにやって来るのが見えたので、曾祖父はすぐ、「助けて!助けてくれ!」と大声で叫んだところ、その声を聴いた警察はこちらに急いでやって来て、重傷した中国人を確認し、すぐさま暴徒たちから解放させた。その後は黄子蓮を小松川に送って軍に引き渡し、さらに軍から千葉の習志野収容所に彼を移送した。

  習志野収容所には一千人余りの中国人が収容されており、そのほとんどが温州と処州の同郷者であった。曾祖父とその他の罹災中国人は一様に日本の暴徒の監視を受けており、終日恐怖を感じながら過ごしていた。食事は毎日卵ほどの大きさの握り飯を三つ与えられるのみであり、寒村出身の曾祖父はこのような地獄の生活を初めて経験した。

1923年10月8日、曾祖父らは上海に到着した。彼は十六鋪港から上陸すると、温州旅沪同郷会と上海協済日災会の熱烈な歓迎を受けた。祖国の同郷者が日本に出稼ぎに行っていた自分や同郷の仲間を歓待してくれるなか、自身が日本で遭遇した災難や仲間が惨殺された情景を想起し、熱い涙が溢れるのを禁じ得なかった。彼は温州旅沪同郷会長およびメンバーに関東大地震時に中国人同胞が日本の暴徒によって虐殺された状況、そして自己の九死に一生を得たその過程を語り、さらに上海新聞界に日本の軍国主義の暴挙を涙ながらに訴えた。

    曾祖父は故郷に帰ったものの、負傷した傷を治療する金もなく、1924年5月に実家の杭源村で病死した。曾祖父は一家の大黒柱だった。彼の死は、一家全員をこの上ない悲しみに陥れ、さらには極度の貧困状態にも陥れた。

    その他数名の同郷である黄岩池、黄景軒、黄程囲、黄子森らはみな一家の大黒柱であった。彼らが日本で惨殺され、その訃報を知った四家族は泣き叫び、悲痛に打ちのめされた。

    黄岩池の父である黄加環は息子が異国で惨死したことを知り、そのショックに耐え切れず、病に伏せてしまい、何日も食事をとれなかった。母親の麻氏もまた病で倒れ、翌年6月に亡くなった。すべての家庭はこのように崩壊していったのである。

    黄景軒の父の黄忠寿はもともと体が悪く、息子の訃報を聞いてからは痴ほうになり、生活を送れないほどになってしまった。母の陳氏は終日涙を流し続け、7年後には鬱のあまり亡くなった。

黄程国に親族はいなかった。

  死んだ人間は返っては来ない。生きている者は強くならねばならない。我々は怒りを感じているが、しかし歴史の悲劇を繰り返さないことを望んでいる。

  我々の後代がよりよい平和な環境を創造し、中日両国人民が幸福になるため、私たちは中日の社会の各分野の人々がこの歴史に関心を持つことを望みます。私たちは団結して日本政府の歴史的罪行を追究し、歴史の公道と正義を取り戻しましょう。

 

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