邱长听发言稿(中日文)
几代人的痛
我叫邱长听,我的曾祖父邱国莲也是去日本打工谋生,在关东大地震之后,日本政府为了转移国民对政府救灾期望的压力,故意散发假信息,诬陷朝鲜及中国的这些打工者抢劫放火,而激起导火线,社会激进分子使几千勤奋守法的打工者凭空无辜被残害街头,曾祖父是其中之一。 曾祖父被害以后,我的曾祖母在家带着三女两子,最大的我爷爷当时是二十一岁,最小的姑婆才三岁,后来生活困苦,我的小姑婆也夭折,给我们家庭祖上所造成的不幸苦难可想而知了,
从事情的发生到后来的种种迹象,表明当时的日本政府及部分社会民众,军国主义思想倾向严重,誓无惮忌地践踏人权,滥杀生命有如当今的伊斯兰国,完全是反人类行经,发展到后来日本侵略中国及周边国家,给我们大家所带来的悲惨苦难影响深远,聲竹难书。
后来日本的战败投降是邪不压正,世界正义人士对日本军国主义发展的最终惩罚,国家之间的战争后来是东京审判告一段落,我们这里今天不说。1923年是和平年代,事情的起因你日本政府有不可推怯的责任,所犯的罪行要负责,当时的当事人现在是都不在了,是没办法追究了,政府是延续的,日本的皇家还是那时候皇家延续下来的,现如今如果不惩罚凶手,那么对我们受害者后裔的一个赔偿及道歉总是要的。
现在的日本是高度文明法治国家了,对自己身上这些污点怎么面对、怎么处理我们拭目以待。
邱長听挨拶文
幾世代にわたる痛苦
私は邱長听と申します。私の曾祖父邱国蓮も、生活の糧を求めて日本で働いていました。関東大震災の後、日本政府は故意に朝鮮や中国の労働者が強奪や放火をしているとする虚偽情報を散布しました。これが導火線となって、法を守りながら勤勉に働く数千の労働者が街角などで社会的過激分子によって惨殺されました。曾祖父はその内の一人でした。
曾祖父が殺害された後、家では私の曾祖母が3女2男を抱えていました。最も年長の私の祖父でさえ当時21才でした。最も幼い叔母はまだ3才でした。その後、生活が困窮し、この叔母も他界しました。私たちの家庭は筆舌に尽くし難い苦難に苛まれたのです。
事件の発生から、その後の情況を鑑みて、当時の日本政府と民衆は軍国主義の思想に酷く毒されていたようです。平然と人権を踏みにじり、今日のイスラエルのように、みだりに人命を抹殺しました。これは反人類の所業といわざるを得ません。こうした傾向はその後の中国や周辺諸国に対する侵略へと発展します。私たちが被った筆舌に尽くし難い惨苦は、この影響に深く根ざしたものと言えます。
その後、日本が敗戦し、降伏するのは正に、邪悪が正義に屈した結果と言えます。世界の正義の人々が日本軍国主義に最終的な懲罰を加えたのです。国家間の戦争は東京裁判で一段落しました。ここではそれ以上は触れません。
1923年は平時でした。事件の起因について、あなた方の日本政府には逃れられない責任があります。犯した罪行に対しは責任を負わねばなりません。当時の当事者は今はもういません。追求する手だてがありません。しかし政府は連続のものです。日本の天皇家もやはり当時から引き継いでいます。今もし下手人を懲罰しないならば、私たち被害者の末裔は賠償と謝罪を求め続けるでしょう。
現在、日本は高度文明の法治国家です。身の上の汚点にどう対処するのか、どう処理するのか、私たちは注目しつつ待っています。